昭和51年6月26日綾部義夫乃御霊神三五年祭
おかげを頂きまして不行届きながら今日の御霊様にご奉仕を私が祭主のもとにおかげを頂いてありがとうございました。
御霊様のお祭りをこうして申し上げます度にこうして実感することですけど、本当に取次ぎ者冥利というかをいよいよ感じるときは御霊様のこうして式年のお祭りを奉仕さしていただく時です。
今日はどうしてこんなに御霊様のお祭りがありがたく私の心のなかに響いてくるのかと今日神様の前で御祈念しながらそれを思わしていただいておりましたら「神を信じ御霊の働きがわからからじゃ」と頂いた 神様を信じるということは勿論神様の働きを信じるをいうことですけれど
その神様が私共が頂いている神様はもう世の中の一切のこと神様の氏子かわゆいという一念が暑いこと寒いこと又は甘いこと苦いこと様々なものが人間氏子が助かっていくことのためにあるということを信じる訳なんです。
ですから信心してるのにこんな苦い思いをせにゃならんということもなければ、信心してるのにこんなきつい思いをせにゃならんという。
それがありがたいということが神を信じるということ神を信じ御霊様の実在又は御霊様のご様子が分かることによって、私共のいうならば、家を大切にしなければおられない、ご先祖はいうならば家の根である。
その家の根もただ法事をしたとか式年祭をしたからというのでなく、私の場合その御霊様のそうした実在と魂のあり方というものがオボロゲながらでも分かるから私自身が奉仕してこんなにありがたくなるんだということ。
どんなに例えば寒い時に火鉢が手火鉢があるとします、それにいっぱいの木炭がバリバリ熾(お)っておるとします、どんなに熾っておりましても熾っておればおる程火鉢が小さかったらそばに寄り付けませんよね。こんなおおきな火鉢があったというてもそれに火の気がなかったら人はそれに集ってまいりませんよね。
私は今日いつものことながら神ながらな思いをいつも本当にそこに神様の声を聞き、またみなさんも神の声と感じてくださり、やんなきゃならないと思うことは、今日お花がないから、何かお花がないかというておる処へそのお花を村内のご信者さんが持って来てくださったんです。
これを神ながらな御霊様のお花としてお供えさしてもらおうというて思いましたんですけれども、あれはまあ、いうならば、あのアザミの種類だと思うんですね、いうならば紫の花しかもあんなに大きいというところに今後の綾部さんの信心又は御霊様のご信心の一つの進度というものを感じるんですけれども、
それからもう一つありがたいと今日思ったことは天地の神様のお摂理というか、おん働きというようなものは、20年50年というようなものではないですね、ずーと昔からああなってこうなるべくということはもう、それこそ何かヨコタテきちっとしたグラフ用紙をみるようなもんです。
そのように摂理というものは見事に出来ているわけですけれども、綾部さんのお処が丸亀と言う商号がついておるという、もうどれくらい前のことからか分かりませんけれども、如何に合楽に何年何十年、または何百年の後にはという神様がそういうお約束をしたようなものがあって丸亀というのがあって店の看板というんですか商標ができておったんだということです。
これは私のことを神様が亀亀と言うて下さる、その同質のものが繋がるということ、まあいうならば浦島太郎が亀に乗って竜宮場にわたったように今日の御霊様もそういう神様の微妙なまでの働きの中にあってもう合楽に神縁を頂いたということは不自然でもなからなけりゃ可笑しいことでもない、実に自然に自然に神様のお神定めのまにまに合楽というならば、綾部さんのお宅とが縁が繋がったということを分からして頂いたことでございます。
ですからいうならば一生懸命竜宮を極楽にするなら、極楽にむかってまっしぐらに進んでおられるのが今日の御霊様のお姿だというふうに思うです。
おかげを頂いて綾部さんが頂いておられる「信心を頂いているから安心しとります」という安心のおかげというのも、これくらいの場合は安心が出来てるけれどもこれくらいになったら少しジガジガが出来てくるというのが生きた花の神のあれは声です、あの通りのこと、だから御霊様も同じようなことが云えるのではないだろうか。
そこでいよいよ分からせて頂かなければならん事は、いよいよ神を信じることの出来る神様の働きを信じる事が出来るその信心がいよいよおかげを頂いていかなければいけない。
たとえば今朝の朝のご理解に、教祖様の夫人に対する出産のご理解というのはね、今日のご理解しかありませんが、今日出産の事についてのあの御教えの深さ広さということをいよいよ分からせて頂いたんです。
けれども、本当に成り行きを大切にするということがどういうことが起って来ても、起こった時に慌ててしても本当の安心は生まれてこない。
常日頃成り行きを大切に尊ばせて成り行きに従ごうた生き方、いうなら、道理に従ごうていく生き方が出来ておって痛いことが起こってきても痒いことが起って来ても苦い問題があっても甘い問題があっても日頃の神様の働きをそのまま受けて、成り行きを大事にしながら行くから、そのことも私に対して成り行きと受けられるから、それをビクともせずにというか、喜びをもってというか拝んで受けていくことが出来るのであります。
今日は研修をさして貰う時に丁度萩の市川さんがお参りになっておられて「親先生、私がもし二十歳に合楽の親先生を知っておったら今ごろ御道の教師になっておっつたでしょう、どうゆうて先生ありがたいお話を聞いているのに、そのう本当の、今日下の伊藤君が昨日研修の時に発表したことを読んで貰いました、それがもう実に素晴らしいその言葉で自分は実感をそのまま自分が助かっておる様子をもう一応おかげというものを置いて、先ずは自分が助かる事という生き方に合楽で触れたのは成り行きを大切にするということを聞いた時に、それこそ足元から鳥が飛び立つ思いであったという表現をしとりますが、だからそのことだけに専念するから、いうならば一月足らずですけれども神様からいろいろお知らせを頂くようになった。
何時数えても何十年信心しとるけれども未だ頭の中、心の中にいっぱいおかげを受けにゃならんことがあるから信心がなかなかそれに一杯に入ってこない、本当の信心のおかげを頂くことが出来んでおるのだと話させてもらったことですけれども。
たとえば御霊様の場合にはそういう昔の昔から、その合楽との繋がりが出来る、合楽ができる前から、いうならば、そういう摂理というようなものは定めてあった。
ですから、亀の島から乗るのも無条件に抵抗なくすーっと乗ってこられたという感じがします。
そしてどういう事かと云うとどんなに誤りを潜っていってもそのーもう自分自身が助からなけばならないことだけに一生懸命ですから、分かりが早いというかこの亀の背中に乗ってしておれば大丈夫だ必ず極楽行きは間違いない。
そういう、いうならば、信心が御霊ながらにお出来になられておるというような事が今日の霊祭に非常に強く感じさせてもらう、それが嬉しいのである、それがありがたいのである。
一人一人助かっていくということが、いうならば「親先生おかげで助かりました」というお届けを聞く時にお取次の御用を頂いておるという取次者の冥利をいよいよ感ずる時であるように、御霊もこの亀の背中に、いうなら、しがみ付いてさせておきゃ極楽行きは間違いないのだと自信確信を持って、唯ひたすら助かることの精進をなさっておられるという事がそれがありがたいと分かるからありがたいんだという訳なんです。
そういう意味で本当にありがたい、そしていうならば、この御霊のお祭りを境に御霊様もいよいよあの紫の大きな花のかたまりのような安心の御霊喜びの御霊としてのおかげをいただかねばならないように私共も、もっとより大きくならなければならない。
まあこれぐらいの火鉢に火がグルグル熾ってとるという感じで、火鉢に手を当てられんこの辺から暖をとるといったような感じなんです。
ですからここで豊かに大きくなるということ、そしてこの火を移した時にこの火鉢の周囲にたくさんの人がお陰で助かったというようなおかげになってくることであろうとまあ思うんです。
けれども、それにはいよいよ神を信じ、ということは、神の働きそのものを信じるんですから、そこに例えばイライラするようなことが起きても、神様のそれを働きと信じる時にイライラが治まるどころかありがたくなる訳です。
御霊様がいよいよ家の根としてのお働き又はいよいよ喜びを目指し安心の御霊を目指さして頂いて精進されるように、私共がそれに繋がった者が本当に安心のおかげを頂く。
例えば今日お届けにあなた方よりも早かったんです今日あなたのほうが、それで妊娠のおかげを頂いた「それは安産間違いなかばい」ちゅてというてお産のご理解があった、今日は幾人もそういう例がございました。
神様の生きた働き、「合楽のご理解が生きたご理解であるということがそれを持ってでも分かるね」と申しましたことでしたけれども。
今日のみたまさまにあやからせて頂いて、もし今日みたまさまのお祭りが今日仕えられていなかったら今日のご理解いただき合わせなかったということになる。
思えば思う程切なる摂理というものを強く感じさせて頂きましたですね
どうぞ.
入力 ひろさき